山行報告 | |||
報告者 津田憲由 | |||
山行日 | 平成22年11月14日 | 天候 | 曇り |
ルート | 近鉄西ノ京ー唐招提寺ー平城京ー東院庭園ー佐紀盾古墳群ー近鉄平城京 | ||
コース タイム |
10時00分ー11時00分 近鉄西ノ京駅ー唐招提寺 11時30分ー14時40分 平城京 13時30分ー14時30分 東院 14時30分ー15時45分 佐紀盾古墳群ー近鉄平城京駅 |
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参加者 |
リーダー:津田 サブリーダー:村上 男性:峰岡、隅谷、石田、坪田、秋月、山口、岡部、梅澤、弓仲、佐坂、西上、藤富、 女性:平松、玉井、吉津、加藤、西上、進藤、藤富、徳田カヨ、山田、徳田幸、岸田、 |
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山行報告 | |||
10時〜11時 近鉄西ノ京〜唐招提寺見学 「天平の甍」の甍で有名な鑑真和上の唐招提寺を見学、金堂の国宝本尊仏像に対面、講堂 では今までの改修などの説明、木々の紅葉の色彩良し。 11時半〜13時40分 平城京跡訪問 平城遷都1300年祭で湧いた平城京跡、復元第1次大極殿見学、竹皮弁当をおいしく頂き ました。 13時40分〜14時30分 東院庭園見学 14時30分〜15時45分 佐紀盾古墳群散策〜近鉄平城京駅 法華寺は特別展のため、見学をやめ直接古墳群に、自動車道路をさけ路地をえらび、北 上して古墳群に向かう。初期ヤマト政権の美しい古墳に歴史の佇まいを感じました。 今回の交流会は、村上部長の「交流」という趣旨で出来るだけ多くのメンバーにきて頂くことが大切とのことで、大まかに40名参加の目標を決めました。 一応40名の参加名簿を提出しましたが、直近に欠席連絡があり38名になりました。 しかし、当初の「交流」の意図はできたのではないかと交流部全員満足しています。 参加していただきありがとうございました。 |
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一口感想 | |||
坪田 宏 | |||
明け方は雨が降ったので雨が心配されたが、日中は薄日の差す暖かい行楽日和となった。新田辺駅では34名の参加者がお弁当を受け取り電車で西の京に移動する、現地集合者を加え総勢38名が第一目的地の唐招提寺に向かう。 唐招提寺の入り口から見る金堂は厳かで重厚さと気品を感じる建造物でさすが世界遺産と感心しつつ、堂内に安置された仏様のお顔を拝観しているとなぜかこみ上げてくるものがあった。境内の紅葉は少し早いのか木々の色付きは少ないように感じた。 秋篠川沿いを歩いて平城宮跡に向かい、大極殿ではボランティアの説明員から北極星と大極殿の関係を聞きなるほどと納得した。昼食後は東院庭園を訪れたが池や建物、小川が配置され、思ったより美しくし整備されていたのが印象に残りました。 古墳群では準備された案内図を片手に難しい古墳名の読み方に四苦八苦したが、古墳には場違いな自衛隊幹部候補生学校敷地内の戦闘機が妙に印象に残りました。 今回は幹事の津田さんには計画から、数回の下見、資料の準備と全面的にお世話になり有難う御座いました楽しい交流会でした、最後にお疲れ様でした。 |
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赤松隆二 | |||
西の京駅から唐招提寺へ金堂の巨大な三尊に合掌、木々の色づきはまだ一部の境内をゆっくり散策しました。後、秋篠川端から平城京跡へ4月から350万人超を集めた平城京遷都1300年祭が終了して1週間でも結構な人出に驚きです。復元大極殿内で観光ガイドさんからの熱心な説明に聞き入り感心。お楽しみお世話いただいた昼食タイム。東院庭園から佐紀楯列(さきたてなみ)古墳群をウオーク、気になったのが仁徳天皇の皇后磐之姫命稜が奈良に夫は堺市に、調べてみると磐之姫命は夫の浮気を許さず、それきり夫の元には戻らなかったと。 あおによし奈良の都のウオークは季節外れの黄砂も小春日和に恵まれ楽しい一日でした。奈良再発見もありました。 お世話いただいた交流部M部長、CLTさんはじめ部員の皆さまお世話になりました。ありがとうございました。 |
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小川弘二 | |||
交流部の勧誘文「歴史ロマン散策」と某交流部員さんのお誘いにより、申込み期限が過ぎていたのですが参加させて戴きました。そのため?お弁当の不足が生じたとかで弁当が当たらなかった交流会の方々にお詫び申し上げます。 天候に恵まれ 西ノ京駅をスタートし唐招提寺〜1300年遷都の平城宮跡の大極殿〜佐紀盾古墳群を経て終点平城駅へと古の香り豊かなコ−ス散策させて戴きました。特に佐紀古墳群は初めてで天平時代にタイムスリップした感じで歩けて非常に良かったです。 今回の散策を通じて感じたこと 疑問に思ったことを述べさせて戴きます。 第一に「今のように電動工具や機械のない7世紀の時代に大極殿や大仏殿等の巨大な建物や仏像がどのようにして作り得たのか?」という疑問が湧いてなりません。又、東大寺の大仏さまもこの頃作られたのですが約7年間で出来たのに対し、平成になって行われた唐招提寺の金堂の修理や1300年遷都に向けて作られた大極殿は10年も掛かっていることを考えれば畏敬の気持ちで一杯です。 二番目としては「何ゆえ鑑真和上は平穏な唐での境遇を捨て盲目となってまで未開の日本に行こうとされたのか?」が凡人の私には理解できません。この頃の日本は中国と比べて産業面でも文化の面でも相当遅れていたと考えられ、仏教においても厳しい租税や労働から逃れるために僧侶になろうとする人が増え戒律もなかったことから腐敗しきっていたと言われています。そのような状況を遣唐使から聞き鑑真和上も慈悲深い御仏の心で日本に行くことを決意されたのではないかと推測します。又 18回にも渡り遣唐使を派遣したことを考えると隷属関係にあったのかなとも思いますが尖閣諸島問題をはじめとして色んな所でいがみ合っている現在と比べると今よりずっと仲がよかったのかなという気もしますが・・・ 又 歴史を見ると国ごとの栄枯盛衰の推移がわかるような気がします。 いずれにしても鑑真和上のような慈愛に満ちた悟りの境地に少しでも近づきたいものですね! 私もお遍路さんになり寺参りでもしようかな? 菅首相を見ていると全く効果がないか? 最後になりましたがお世話を戴いた交流会の皆様にお礼を申上げ、くだらない感想文を終わらせて戴きます。 |